人生本番は還暦から!自転車を友として人生を楽しみ味わい尽くすことに挑戦。このblogはその記録。
『町内会を楽しむ法』は、昨年 2021年2月頃書き始め、第1号を確か去年6月に配布した。そして、今年令和4年2月最終第5号を書き終えた。
今回は第1号を披露する。会長就任前後の経緯を書いた。
町内会長11年目を迎えました。来春3月の辞任までに、これまでの活動を振り返って総括すると共に、我が思うところを皆様にお伝えすることをもって町内会長としての最後の務めとすることにしました。 お暇な折にでもお読み頂ければ幸いです。尚、本文書及び続編の印刷について、町内会は費用負担しません。念の為、申し添えます。
輝国二丁目2区の皆さまこんにちは。A前会長に代わって、町内会長になりました村上です。 町内会活動の経験も理解も、共にゼロに等しい私ですが、A前会長がその任を続けることが困難だと知り、やむを得ず大任を受けたというのが実情です。 東日本大震災に衝撃を受け、日頃から互助精神〜和〜を醸成しておく必要があると感じ始めていたことも決断の背景にありました。 しかし、わからないなりに、次の3つを目標に頑張ろうと思います。 ① 私自身が町内会について学び、学んだことをお知らせします。 ② 地域のことに関心のある人が、住居や年齢等に関係なく、会長などの仕事ができる町内会をめざします。 ③ 町内会の仕事を楽しく、やり甲斐のあるものにするように努めます。 その結果、町内会の仕事にやり甲斐を感じず、存在の必要性を感じなければ、会長を辞めます。これが私の決意です。 町内会が誰にも認められず、役にも立たないのであれば、存続させる必要はないと思います。 目標、決意はあっても、何もわかってないのが現実です。そんな私の補佐役として、A前会長の奥様に副会長になっていただきました。 行き届かず、ご迷惑をおかけすることも多々あると思いますが、何卒温かいご支援・ご助言を賜りますようお願いいたします。 (平成23年5月 町内会報第1号より)
前掲挨拶文は10年前の町内会報創刊号からそのまま抜粋しました。写真も当時のものですが、馬齢を重ねた今、流石に創刊時の大きさでの掲載は憚られ縮小しました。(笑) さて、会長就任には大きなためらいがありました。それまで自分が温めていた計画・展望に修正を迫られるからです。 それに、町内会・自治会への不信がありました。誰とも知れない人が、好きなことをやっているというのが正直な思いでした。 しかし、前会長が病を得て体調が優れない状況を前に、後任に手を挙げる人がいない現実に憤りを覚えました。 町内会長の任を受けたのは、義憤からだったと言うのが真実です。『義を見てせざるは勇無きなり』の心境でした。(笑)
平成23年3月11日、この日がなければ町内会長になることもなかったかもしれません。 東日本大震災の日です。国会中継画面が切り替わり、押し寄せる津波の映像になりました。命を持ち、意志を持った悪魔の波があらゆる物を呑み込みながら押し進む。 その衝撃的な光景。率先して物事に取り組んだことのない人間ですがこの日深夜、義援金を募る決心をし呼びかけを始めました。清水の舞台から飛び降りる思いでした。 会長就任の依頼があったのは、募金活動それに専門学校講師の仕事と新しい生活が動き始めた最中の3月18日でした。 この流れの中で断るという選択肢はなかったのかも知れません。4月15日、泥縄式の町内会総会開催となりました。 こうして、右も左も分からないまま新米町内会長としての生活が始まりました。 何しろ、それ迄町内会との関わりはゼロ。何年かに一度、組長を打診する形式的な話がある以外、なんの接触もありませんでした。 若い頃の記憶の奥底をつついても赤い羽根募金や、成人の日に祝いの弁当が届けられた以外なんの思い出もありません。 つまり、町内会とは私にとって『顔の見えない』組織であり『顔のない』組織でした。ましてや、自治会など存在さえ知りませんでした。
東日本大震災がきっかけで、万一の時に備えて日頃から地域の繋がりの輪を広げておくことの大切さを感じました。『絆』が時の言葉にもなりました。 地域に密着した行政の最先端組織とも言うべき町内会こそ、この役割を担うに相応しいと思いました。 一方で、その存在があまり意識されてないと感じます。いや、何の世話にもなってないと煙たがられているのが実情かもしれません。 そんな中で、60歳を過ぎて町内会と初めて向き合った私が、会長として何をすればよいのか? 思い至ったのが町内会報の発行であり、冒頭の挨拶文です。目指したのは町内会の『見える化』でした。 どこの町内会にも当てはまる会報でなく、輝国二丁目2区の皆さんだけを対象にした町内会報を目指しました。輝国二丁目2区の今を書き、これからを書こうと思いました。 今回はこれにて擱筆。
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